2005-02-01から1ヶ月間の記事一覧

田中桐江

田中桐江は柳沢吉保の家来で荻生徂徠の同僚である。この桐江の祖父が面白い剣術の修業をしていたらしい。「先祖物語」には、台所の大きな柱を力任せに木刀で打ちまくったという。初めは手がしびれるが慣れてくると、痛みも感じなくなる、とあるから凄まじい…

印掌

印掌(印打)の名称が『少林拳法秘訣』の張松渓伝に出ている。それによれば張は印掌に長じており、打つと人は吹き飛んだ、とある。これは掌を立てて打つとしており八卦拳の印打の近いものを感じさせる。

つつしみの心

陳暁東の『拳略』には「拳術を学ぶには先ず『敬』がなければならない。『敬』があって始めて『専』念して学ぶことができる。『専』があれば『微』細なことも察知できる。こうでなければ拳術を学ぶことなどできない」とある。「敬」とは「つつしみ」の心のこ…

道とは

荘子は道に就いて「伝えようとしても授かることのできないもの」「得ようとしても見ることのできないもの」としている。故に道の伝授には「襟を正す」気持ち、誠の気持ちがなければならない。これがなくして伝えることのできるのは「技」のみである。

形意拳の体と用

李能然は形意拳の用は「技」である、とする。そして体を「道」であるとする。「技」は習うことができるが、「道」は自得するほか無いとも述べている。

楽しみ涯(はて)なし

宋書銘の太極拳譜には「無極の根を固めれば、楽しみははてることがない」とある。これは生命の実相を体現する太極拳の境涯をよく示している。

奥義の書

20年ほども前になろうか大陸から秘伝の道教教典2冊を30万で売る、という中国人がおり、鑑定を依頼されたことがある。見ると道蔵の一部であった。民国の初め頃に刊行されたものらしいが同じ版のものは、道蔵をコピーすれば数百円で手に入れられる。

報道特集

北韓で占い師をしていたという男性が出ていた。四柱推命を行うという。いろいろなところから残っていた文献を集めて研究したらしい。同様な状況はかつての大陸でもあり、道教の教典ななかなか入手困難であった。

香をたく

香をたくのは「師の居ますが如き」の気持ちからである。確か王子和のビデオには、冒頭に香炉が出てきたように記憶している。

時間を制御する

崩壊とは抗いがたい時間の流れである。それを有利に作用させるには「太極拳」が良い。不利にものから有利なものを導き出すのが「陰」の働きなのである。

内的力

優れた美術品は、崩壊を始めることで、更に内に秘めた力が明らかになる。虚飾が落ちた時が、真価の表れる時なのである。人間では50〜60代がそれに当たる。

大ガラス

デュシャンの大ガラスのミニチュア・レプリカの到着を待っている。実に面白い作品で気に入っている。

マルセル・デュシャン

横浜美術館で開かれているマルセル・デュシャン展は実に面白い。思想的にはピカソ以上のものがある。台北市立美術館にも、その影響を受けたと思しき展示が多くある。

二二八紀公園と中正紀念堂

10年ほど前と風水が逆転してしまっている。かつては蒋介石を祭る中正紀念堂の方が厳粛な雰囲気があり宗教系の気功が多かったが、現在は二二八の方が鎮魂のメモリアル・パークとしてしめやかな感じがして静かに功を練る人が多い。

太和拳

太和拳では「拳を練るにはトウ功を先に練らなければならない。トウ功を練るには先に気を練らなければならない。気を練るには先に意を練らなければならない」とある。これは奥義である。

虚と実

虚の中に実が含まれ、実の中に虚がなければならない。これが神明の段階である。

「学拳千着、一速為先」

これも『武当拳術秘訣』にある。勝速霊をいったものである。「多くの技を学んだとしても、速さを第一としなかればならない」という意味である。また「一速を先と為す」と読んでもよかろう。そうすると「一」なる速さということになる。

金一明『武当拳術秘訣』

「相手が千変しようとも、我が心は一である」とある。これは「定」と「変」を考える上で名言である。「変」は、我が心が「一」を得て初めて可能となるのである。

少林寺の武術

歴史的文献を見るのに少林寺で武術が語られるのは、比較的新しいようである。これに対して道教内でそれが語られることは多くあった。中国武術の根源を少林寺に求めるのは意外に新しいのである。

双剣

『抱朴子』には「雌雄の剣」の話が出てくる。それは同じ材質であっても、その中に雌雄のあるを見抜いて鋳なければならないとされる。剣は本来は双剣とすべきものなのかもしれない。双刀などは、これから派生したものに過ぎないのではなかろうか。

少林の棍、武当の剣

武当派は剣をその代表とするとされる。しかし、兵器としての剣の時代は早くにすたれていしまっていた。このため剣は呪術などに使われ、また個人と個人との争いに使われる武器として独特の発達を遂げた。

軽身之術

「張漢天師世家」の張陵伝には「煉形合気之術」と並んで「養神軽身之術」とが記されている。「合気之術」「軽身之術」の根源を考える時にひじょうに示唆的な記述である。

コ惑

コ惑とは、相手を騙して誘うことであるが、今年のコ卦を象徴するように「偽造」問題が拡大している。初め半年は被害が拡大するであろうが、これに充分な対策を施したところは大きな利を得ることとなろう。

居合いの柔

武器術に付随する柔は、大東流のみではない。また徒手技法も武器術へと変化する。これも文武の合一である。

大東流の合気

合気は崩しの技法であるが、これは「潰し」の崩しであり、「投げ」のそれではない。「投げ」るには相手を引き付けなければならない。合気を投げに使おうとしているところに大東流の困難さがあるし、合気道が大東流の合気を継承しなかった理由もある。

力を出す

優れた役者が舞台に立つと、独特の雰囲気を出す。オーラが出ている、といわれることもある。套路を打つ時も、そうでなければならない。エネルギーが漲るような套路でなければならない。

美を見出す

「民芸」の柳宗悦や、「原始美術」の岡本太郎のように「美を見出した」人達により、新たな価値が器物に与えられた。物自体は変わらないが、そこに付加価値が見出されたのである。これが万物を生む「虚」の視点でもある。

作るということ

量産されたものの中にも特別に美術的に優れたものが生み出されることがある。こうした「美」を見出したのが「民芸」である。殊更に「良いもの」を求めるばかりではなく、ひたすら作り続けることも重要である。