2004-11-01から1ヶ月間の記事一覧
先天の気は「機」と深いつながりを有している。「機」とは「道理」のことである。「道理」を理解し得ていなければ、多くの場合において後天のエネルギーの大きなロスが生じる。
より良く生きるのに必要な知恵は後天の世界に属するものである。このため人は後天の知恵を得ることにのみ努力を傾注し、先天の世界を顧みることがない。
指導者は形の中に含まれている「力」がうまく表現できるように形を指導する。次いで修業者は「力の形の意味を知るよう努める。
絶招は繰り返しの練習によって得られるのではない。自らの中にある「型」と出会うことにで、それは得られるのである。
卓越した行為をなそうとするならば「神」を開いておかなければならない。感情により励起される「力」の大きいこは、よく知られているところである。
かつてはその段階に至るまで如何なる伝授も行われることはなかった。今日では、かなりの部分が「先行」する形で行われている。修業者は注意しなければならない。
呉鑑泉は套路を打つ時に喜怒哀楽の情を示したという。これは身体感覚がその力のポイントの移動に伴い感情を導き出したからである。これは感情(神)の浄化でもある。
中国では歴史を「鑑」として見る。『資治通鑑』は現在でも経営者の座右の書となっている。套路も自らの「鑑」として用いられるべきである。
定められた答えを知ることが大切なのではない。新たなる答えを探究することこそが大切なのである。
言語の響きを感じる観法を阿字観という。套路においてもその情報を身体で感じられなければならない。これが聴勁であり、合気である。
走圏では「力ある歩法」が用いられなければならない。これを獅子歩という。
新たなる行為は、新たなる思考を与えてくれる。それは套路を厳密に打つことで得られる。
「質」ばかりを追い求めても大成を得ることはできない。しかし、脅迫観念による「量」の追求も意味をなさない。滋味による静かな心での「量」の追求こそが「質」を伴うものなのである。
「指点を受ける」とはアドバイスを得ることであるが、中国では奥義の口伝を得る、といった意味合いで使われる。弟子の準備ができた時、奥義の伝授は口伝のみで充分なのである。鄭曼青が左莱蓬の口伝を得て太極拳の奥義を悟ったように。
師が授けられるのは伝承されてきた知識である。これを活かすには弟子の功が求められる。師は弟子を門前まで導くとされる所以である。準備ができれば師は自然に現れるとされるのは、実は本当に「師」として接することができるのは準備が整ってから、という意…
敬(つつしみ)の心を持つとは、自らの行い、感情を細かに観察することである。傲慢であってはならない。「傲」の戒めは、八卦拳戒に説くところでもある。
伝統的な知恵の結晶である套路を活かすには功を練らなければならない。功のない知識は上滑りをするのみである。目先の「実用」には耐えてもそれ以上のものを生み出すことはない。
機(チャンス)は微細な兆を以って現れる。多くの人はこれを見逃してしまう。武術を練る者は「静」を体得することでこの兆を?まえる。それまではひたすら準備をするのである。機は何時あらわれるか分からない。
エネルギーの消長を扱おうとする場合には常に戦略を持っている必要がある。消耗と補給の関係を適切に保持していなければならない。補と瀉を知ることである。
身体を大きく開くこと(伸)で縮を誘導しようとする武術もあれば、初めからエネルギーを回帰させる形で縮を行い、エネルギーが満ちることで伸を促すものもある。エネルギーが満ちた伸は舒展と称される実に優美な動きとなる。
八極拳は巴子拳で行われるべきであるが、今日、その真伝が失われてしまっている。巴子拳は「拳」と「掌」の中間にあるものであり、こうした「中庸」への試みは蟷螂手にも見られる。
道とはエネルギーの流れのことである。万物をエネルギー存在として感じられると万物斉同の境地が得られる。デジタル化の時代にはむしろ受け入れられやすい考え方なのかもしれない。
感覚と論理とは別物ではない。細かな論理を体験するのが感覚なのである。また感覚が開けていなければ細かな論理は構築できない。密教が中観思想という膨大な論理の上に成立していることを忘れてはならない。
武術の修業とは内的、外的体験を積み上げることに他ならない。こうした「体験」には正しいことも間違いもない。また価値も無価値もない。大切なのはこれをどのように用いるか、である。無闇な解釈をしてはならない。
「縮」を得るには「為さないこと」を体得しなければならない。「為さないこと」とは、意図を持って行わないことである。感覚を頼りにすることである。 感覚と戦略がひとつになるのが先天後天の合一である。
現在の人は「伸」を主体とする身体になっている。エネルギーが発散するのみなのである。 向上、進歩とはそうした方向性にあるものである。故に「縮」を学ばねばならない。エネルギーが回帰するようにする必要があるのである。
「その時」の感覚を忘れないようにしなければならない。稽古の時、伝授会の時、突然おとずれた「感覚」を忘れないようにする。「忘れない」とは言語化をすることではない。体験をそのままに閉じ込める訓練が先ずは必要である。
問題は「何を実戦するか」である。これは「実戦すべきことを実戦する」としか言いようがない。また「実戦すべきでないことを実戦しない」ということでもある。
武術を修する者はあらゆる「実戦」の機会を捉えて「実践」をしなければならない。そうして「知」を育てて行くのである。これ以外に神明にいたる方法はない。
武術を練る者にとって実践と実戦はひとつのものである。全ては実戦であり、実践でなければならない。例え格闘の場面があったとしても門派の原則から逸脱していたのでは「実践」しているとはいえない。全てが、あらゆるものとの闘争なのである。