デュシャンの大ガラスのミニチュア・レプリカの到着を待っている。実に面白い作品で気に入っている。
横浜美術館で開かれているマルセル・デュシャン展は実に面白い。思想的にはピカソ以上のものがある。台北市立美術館にも、その影響を受けたと思しき展示が多くある。
10年ほど前と風水が逆転してしまっている。かつては蒋介石を祭る中正紀念堂の方が厳粛な雰囲気があり宗教系の気功が多かったが、現在は二二八の方が鎮魂のメモリアル・パークとしてしめやかな感じがして静かに功を練る人が多い。
太和拳では「拳を練るにはトウ功を先に練らなければならない。トウ功を練るには先に気を練らなければならない。気を練るには先に意を練らなければならない」とある。これは奥義である。
虚の中に実が含まれ、実の中に虚がなければならない。これが神明の段階である。
これも『武当拳術秘訣』にある。勝速霊をいったものである。「多くの技を学んだとしても、速さを第一としなかればならない」という意味である。また「一速を先と為す」と読んでもよかろう。そうすると「一」なる速さということになる。
「相手が千変しようとも、我が心は一である」とある。これは「定」と「変」を考える上で名言である。「変」は、我が心が「一」を得て初めて可能となるのである。
歴史的文献を見るのに少林寺で武術が語られるのは、比較的新しいようである。これに対して道教内でそれが語られることは多くあった。中国武術の根源を少林寺に求めるのは意外に新しいのである。
『抱朴子』には「雌雄の剣」の話が出てくる。それは同じ材質であっても、その中に雌雄のあるを見抜いて鋳なければならないとされる。剣は本来は双剣とすべきものなのかもしれない。双刀などは、これから派生したものに過ぎないのではなかろうか。
武当派は剣をその代表とするとされる。しかし、兵器としての剣の時代は早くにすたれていしまっていた。このため剣は呪術などに使われ、また個人と個人との争いに使われる武器として独特の発達を遂げた。
「張漢天師世家」の張陵伝には「煉形合気之術」と並んで「養神軽身之術」とが記されている。「合気之術」「軽身之術」の根源を考える時にひじょうに示唆的な記述である。
コ惑とは、相手を騙して誘うことであるが、今年のコ卦を象徴するように「偽造」問題が拡大している。初め半年は被害が拡大するであろうが、これに充分な対策を施したところは大きな利を得ることとなろう。
武器術に付随する柔は、大東流のみではない。また徒手技法も武器術へと変化する。これも文武の合一である。
合気は崩しの技法であるが、これは「潰し」の崩しであり、「投げ」のそれではない。「投げ」るには相手を引き付けなければならない。合気を投げに使おうとしているところに大東流の困難さがあるし、合気道が大東流の合気を継承しなかった理由もある。
優れた役者が舞台に立つと、独特の雰囲気を出す。オーラが出ている、といわれることもある。套路を打つ時も、そうでなければならない。エネルギーが漲るような套路でなければならない。
「民芸」の柳宗悦や、「原始美術」の岡本太郎のように「美を見出した」人達により、新たな価値が器物に与えられた。物自体は変わらないが、そこに付加価値が見出されたのである。これが万物を生む「虚」の視点でもある。
量産されたものの中にも特別に美術的に優れたものが生み出されることがある。こうした「美」を見出したのが「民芸」である。殊更に「良いもの」を求めるばかりではなく、ひたすら作り続けることも重要である。
人は木、火、金、水のいずれかのエネルギーの特色を持っている。大切なのは、それらを通して「土」を知ることにある。「土」を知るとは「他」を知ることでもある。「自」を知り、「他」を知ることで、「知」は「一」を得たものとなる。
後天の世界は、先天の世界と別にあるのではない。二つは重なり合っているのである。理論を押し詰めて行けば感性の世界に入るし、感性はより深い理論へと導くものなのである。これは古代インドの精緻な哲学体系を見れば良く分かる。
歩法を練ることは八卦拳に限らず重要とされている。それは歩法が身法の全てに関わるものであるからである。正確な歩法を得れば、日常の生活すべてが功を練る行為となり得る。
神戸から出土した銅鐸には、多数取りを示すと考えられる図がある。人物の線といいよく力の関係が示されている。太古武術の秘図であったのであろう。
先天の玄なる世界は永遠の世界でもある。本来、神仙術はこうした世界を追究していた。不老不死である。しかし、これが肉体的な不老不死と誤伝されて誤謬の歴史が始まった。その最たる時期は唐代であり、多くの人が水銀を飲んで亡くなった。常世とは永遠の世…
無極は先天、虚の世界である。太極は後天、実の世界である。無極と太極とは完全に重なっている。先天の世界は、我々の身の回りに偏在してはいるが、決し捉えることはできない世界である。
胎蔵界も玄なる先天の世界を指す語である。これに対して金剛界は、後天の世界のエネルギーの流れを重視している。胎蔵会は無極であり、金剛会は太極であるとも言える。
日本では家屋の入り口を玄関と称すが、内丹術では「玄牝の門」を玄関という。しかし、アフリカなどでは家屋そのものが「胎」となっており、古代の家屋においては、須らくその入り口が「玄牝の門」と称されるべきものでもあった。こうしたことを考えると、玄…
玄牝の門とは、先天の世界に入るための門である。先天の世界は「玄」であり、闇の世界でもある。日本では「とこよ(常世・常夜)」っと称せられた。
多数取りの場合は、空間に一点を見出す。これが「一」である。「一」に還元するのが多数取りであり「一」から敷衍させるのが套路の稽古なのである。
粘勁で粘りつくのは、身体の表面ではない。相手の身体の奥深いところにある「一点」を見つけるのである。この極小の一点は、相手の身体の全体を支配するものでもある。中庸とは「それを小さくすれば極小の存在となり、それを広げれば宇宙の彼方にまで広がる…
CMで打ち込まれた剣を払い飛ばすシーンがある。これは粘勁の極地でもある。「力の一点」を使うのが粘勁なのである。(この映像はラックスのサイトでも見ることができる)。
数千年前の人物とされるアイスマンに経絡治療を思わせる刺青があるという。これはひとりの天才の感覚が生み出したものであろうが、体系化されることがなかったので廃れてしまった。